言葉は封筒の様なものかもしれない

photo credit: Be yourself via photopin (license)

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ご機嫌よう、煤渡(@suswatari88)です。

「言葉」ってなんなんでしょうね。そんなことを考えるのが好きなんですが、最近は「言葉って封筒みたいなものかも」と思うんです。

 

封筒が中身の伝達を助ける

封筒の中には普通、書類や便箋などが入ります。封筒も大事ですが、それよりもそういった「中身」の方が大事です。

言葉においても同じことが言えるのかなと。誰かが何かを言ったとき、その「言わんとしていること」を汲み取ることは必要不可欠だし、そういった「言葉の奥にあるもの」の方が大切。

 

ただ、言葉のニュアンスの違いでそれが上手く伝わらない、汲み取れないことも多い気がします。これは封筒を上手く使えていないんですね。

中身は当然もっとも大切なんですが、封筒を上手く使うことで、その中身をよりよく伝える手助けをしてくれます

ラブレターとビジネスの重要書類では、それをしまう封筒も違ってくる。封筒選びを間違えると失礼になることもあれば、素敵な封筒のおかげでより気持ちが伝わることもあったり。

言葉も同じなんだと思うんです。最適化なんて言うと味気ないですが、みんな普段からある程度は無意識に、そうやって中身に合った封筒に包んで何かを伝えているんですよね。

一方で、中身を悟られない様にわざと隠すこともあります。その場合にも、封筒を上手く使った方がより確実。

言葉だけだと全くわからないけど、実はそれをアウトプットした本人はすごく怒っている、なんてこともよくありますよね。実際には案外そういうのって隠しても伝わるから、なおさら面白いんですけど。

 

また、言葉が封筒なら、それを使って伝えるという行為はいわば「郵送」ですよね。だとしたら、その送り方にも気を配ることができるはずです。

普通に送るだけじゃなく、速達で速く届けたり、書留で万一に備えたり。あえて手渡しを選ぶ、という方法もあります。

せっかく封筒にも気を配るのなら、その送り方にも気をつけた方が、よりよく相手に伝わるかもしれません。

 

封筒を選ぶのは相手への慮り

若者がシーンに関わらず若者言葉を使う、ということがよく非難されます。確かに実際、あまり気持ちよくはない。

あれは封筒選びのミスというより、封筒選び自体を放棄していることへの憤りに近いのだろうと思います。

正直若者に限らずだと思うんですが、とにかくそういった「言葉遣い=封筒選び」による不快感というのは、実は“それが行われない時”に強く感じるものです。

 

封筒選びにミスがあったとしても、案外指摘して終わるもの。「そういう時は茶封筒だと失礼だから、こういう封筒に入れるんだよ」と教えてあげればいい。それは、本人が考えて封筒を選んだ上でのミスだから。

でも、その選ぶという作業自体を放棄している、言ってしまえば何も考えずに放られた言葉に対しては、みんな強い不快感を覚える

こいつ何も考えてないな、と思わせる封筒選びになっているか、下手すると中身だけぐしゃっと丸めて投げつけてくるかの様な物言い。そりゃ気分悪いですよ。

 

つまり、封筒を選ぶという行為は相手への配慮なんです。

言葉を使って何かを伝えるとき、必ず相手がいます。対人関係がある以上、そこには最低限必要な慮りが存在する。これは、家族間ですらゼロではないと思います。

封筒選びを完全に放棄した行いは、その配慮を放棄しているのと同じです。相手にしてみたら、自分のことをないがしろにされたと感じる。感じるというか、実際ないがしろにしている。だから不快なんですね。

 

おわりに

こういった配慮を怠っておきながら「誰も自分の気持ちをわかってくれない」「自分の言いたいことが伝わらない」なんてすねるのは、単なる甘えでしょう。

対人関係においては、みんなそうやって少なからず相手を慮っているんです。しかも上手くやれてる人ほど、その配慮を放棄している人への慮りも、同じく上手い

配慮してない人が甘えていられるのは、配慮が上手い人たちが寄り添って汲み取ってあげているからなんですよ。わたしはこの構図、嫌いなんですけどね。そんな甘え方はせいぜい、中学校までにしてほしい。

 

封筒選びを楽しめる人ほど、世の中の見え方も面白くなってる印象です。世界は言葉で溢れかえってるわけですし。わたしもこうして考えているだけじゃなく、もっと楽しめたらと常々思います。

さよならを言うのがこんなにもつらい相手がいるなんて、ぼくはなんて幸せなんだろう。さようなら!