宮﨑駿の描く「涙」はなぜ、大粒であふれ出す様になったのか

泣く少女

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ご機嫌よう、煤渡(@suswatari88)です。

聡明なあなたのことですから、当然ご存知でしょうね。

宮﨑映画における「涙」の描写はある作品以降、大粒であふれ出す様になりました。現実ではあり得ないぐらい、目からもりもりとあふれ出す描写です。

美しい! とその描写を好む人も多数いて、非常に印象的な涙になっています。今回は宮﨑駿が描く、その「涙」についてお話ししましょう。

 

技術の進化がもたらした表現の自由

はじめて涙が大きくあふれ出した“ある作品”とは「千と千尋の神隠し」のこと。

千尋がオニギリを食べて号泣する場面と、クライマックスで宙を舞いながら涙の粒が浮遊する場面。どちらも印象深い涙です。

 

実は、この作品から描写が変わったのには理由があります。

もののけ姫は「スタジオジブリ最後のセル画と絵の具を使った作品」となりました。もののけ姫においては、デジタル技術が使われているのはまだ一部分だけです。

それ以降、つまり「ホーホケキョ となりの山田くん」から、ジブリ作品はフルデジタル処理(原画、動画は鉛筆描き)で製作される様になりました

Wikipedia「もののけ姫 - 製作背景」

宮崎駿監督の新作「千と千尋の神隠し」で、スタジオジブリがPhotoshopを活用

つまり、宮﨑作品においては「千と千尋~」が初のフルデジタル製作だということになります。

映画製作やデジタル技術についてはわたしも詳しくありませんが、製作のデジタル化が涙の描写変化に大きく関わっていることは間違いないでしょう。

そして宮さん(宮﨑駿氏)はもののけ姫よりも前から、いや、最初から本当はこの涙を描きたかったのではないでしょうか。

 

宮﨑駿がずっと描きたかった涙

考えてみてください。宮さんが、製作がデジタル化したからといって理由もなく描写を変えるとは思えません

技術的に可能になったとしても、今までの描写がベストだと思っているのならわざわざ変える必要はないですからね。

ということは、今まではできない理由があったから描かなかっただけだということ。本当はずっと前から「可能ならもっとあふれ出る様に涙を描きたい」と思っていた。そう考えるのが自然です。

ではなぜ、宮さんはそんな「非現実的なほどのあふれる涙」を描きたかったのでしょうか。

 

子どもがわかりやすい描写

その理由の一つは「わかりやすいから」です。

正直、以前の涙はわかり辛いものでした。わたしは子どもの頃、ビデオが擦り切れるほど「となりのトトロ」を観ましたが、サツキとメイが流す涙にはぼんやりとしか気付いていませんでした。

ブラウン管テレビで、しかも自宅で録ったVHSで観ていたことも原因でしょう。ただやはり、白線で描いただけの涙では限界があったと言わざるを得ません。

宮さんは基本的に、アニメーションは子どものためのものだと思っています。子どもたちにとって、よりわかりやすいのは当然「あふれる涙」なんです。

 

泣いている人だけに見える景色

もう一つ、とても大切な理由。それは、その描写の方が主観的であるということです。

あなたが泣いたときを思い出してみてください。確かに、周りから見ればあなたの目からツツツ、と小さな雫が流れている様にしか見えません。

でも、泣いているあなた本人の感じ方はどうですか? 視界は大きくゆがみ、ボロボロと自分の目から大きなかたまりが落ちていく。泣いている時って、自分ではそんな感じがしますよね。

 

実は泣いている本人の感じ方は、宮さんが昔描いていた涙より、千尋の様な大きく溢れる涙の方が近い

つまり、宮さんは泣いている本人だけが感じる「主観的な涙」をそのまま描いているということなんです。

 

主観はあいまいで非現実的である

もちろん、千尋以降の涙は非現実的です。でも宮さんはわかった上で、この非現実的な涙を描いているわけです。

そもそも、実は宮﨑作品の絵は非現実的にゆがんでいることが多いんです。

 

同じアングルから実物のカメラで同じ場所を見たと仮定すると、つまり実写で同じものを同じ角度で見てみると、実際は宮さんが描いている様には見えないのだといいます。

建設コンサルタントの経験もある息子・宮﨑吾朗氏が、以前そう語っていました。ドワンゴの川上量生がジブリで考えたコンテンツのことでも書いたように、ドワンゴ川上さんの著書にも、鈴木さん達の言葉として同じようなことが引用されています。

これは宮さんが、人が脳内で認識する景色を、そのままアウトプットして描いているからなんです。

正しい角度・大きさの見本通りに描く、ということを宮さんはやりません。若手に向かって「写真なんか見て描くな」と言うぐらいです。

 

脳内イメージのままということは、つまり普段わたしたちが見ている景色のままを描いているということ。

例えば、旅行先で「この景色マヂヤバイ!」とテンションぶち上がりで写真を撮り、帰って写真を見てみると全然良くなかった、という経験はないでしょうか。写真と実際に見た景色が違うからです。

 

写真はもちろん、物理的に正しい。でも、わたしたちの視界は案外ゆがんだり、違った色に見えたりしている

宮さんは、そんなわたしたちの主観に近い形で世界を描き出します。そのおかげで宮﨑作品を観ているわたしたちはまるで、“自分がその世界にいるかの様に”のめり込んで楽しむことができるんです。

話を戻して、涙についても同じことが言えます。大粒であふれ出す描写は非現実的ですが、主観に照らし合わせると正しいんですね。わたしたちは、その方がより感情移入して宮﨑駿の世界に入り込めるんです。

 

おわりに

当然ですが、宮﨑作品のベストなイメージは宮さんの頭の中にあるはず。

それを、どうやったら100%表現できるか。これをずっと考え続け、もがき続けてきたはずです。作り手として当たり前の、この欲求が涙の描写変化を生んだのでしょう。

でもそう考えると、もしかしたら宮さんはまだ一度も「100%イメージ通りの作品」というものは作れていないのかもしれない、と思えてきます。

 

まだ何か、やりたいことがあったのではないか。そうでなくとも、宮さんの長編アニメ監督引退は、本当に残念ですね。

あなたに少しでも「怪物・宮﨑駿」のこだわりに触れる楽しさを、味わってもらえたなら幸いです。

さよならを言うのがこんなにもつらい相手がいるなんて、ぼくはなんて幸せなんだろう。さようなら!