ドワンゴの川上量生がジブリで考えたコンテンツのこと

どうも、煤渡(@suswatari88)です。

近年ジブリでプロデューサー見習いもやっているドワンゴ川上さんが、面白い著書を発売しました。

まだ途中なんですが、第1章だけでもかなり興味深い内容。当ブログのジブリ考察にも通づる部分がありました。

 

コンテンツ=現実のシミュレーション?

序盤はジブリうんぬんよりも、「そもそもコンテンツとはなんぞや」といった一般論を、順序立てて整理しています。

アリストテレスの言葉を借りながら、川上さんはひとまず「コンテンツとは現実の模倣=シミュレーションである」と定義付けています。そして、そう定義付けるとするなら、まず思いつく尺度は「そのコンテンツがどれだけ現実に似ているか」であると。

ということは、コンテンツの進化とは「よりリアルになり、どんどん情報量が増えていく」こと。そう考えることができるといいます。

 

そして、実際にジブリの現場でも「情報量」という言葉が多用されているとか。

ジブリの映画は情報量が多いから、いちど見ただけじゃ理解できないので、なんども映画館に来てくれるし、何回、再放送しても視聴率が下がらないんですよ

これは川上さんが紹介していた、ジブリ鈴木プロデューサーの言葉です。ちなみに、アニメの情報量とは線の数で決まるとのこと。

そうすると、情報量というものは「実写>線の多いアニメ>線の少ないアニメ」の順に多いということになります。

 

宮﨑駿の絵は主観的情報が多い

それなら、アニメよりも情報量の多い実写映画は、何度観ても飽きないはず

けれども実際には、必ずしもそんなことはないですよね。ということは「アニメの線の数=コンピューターなら画素数」といった情報量以外に、別の情報量があるのではないか。

川上さんはこれを「主観的情報量」と「客観的情報量」の二つに分けて考えます。

主観的情報量とは、人間の脳が認識している情報の量。客観的情報量とは、アニメの線の数など、客観的基準で測れる情報の量であると。

 

では、その主観的情報量とは具体的になんなのか。これを考える時に重要なのが、宮さん(宮﨑駿氏)の絵は写真的には正しくないということです。

本書でも、鈴木プロデューサーや庵野監督らの言葉が紹介されています。それによると、「宮さんの絵は実際より大きい部分があったり、現実にはありえない構図だったりするが、その方が見る側も気持ち良い。それは、脳が認識して受け取った情報をそのまま描いているから。その結果、脳が理解しやすい、脳に気持ち良い絵を描ける」と。

これは、以前こちらの記事でわたしが考えたことにも通づると言えます。

宮﨑駿の描く「涙」はなぜ、大粒であふれ出す様になったのか

宮さんは、主観的に描く天才なんですね。だから宮さんの絵は、実写よりも主観的情報量が多いんです

 

二つの情報量から考える「コンテンツとは」

この二つの「情報量」という言葉を使って、川上さんはコンテンツを再定義します。

コンテンツが現実の模倣であるなら、客観的情報量を多くすればより現実に近づいていくはずです。ところが人間が認識している現実とは、実は主観的情報で見た現実だということです。

だから客観的情報量を増やしても、かならずしも主観的情報量が増えるとは限りません。むしろ人間が現実を学ぶ教材として、現実の代替を務めるのがコンテンツであると考えるなら、少ない客観的情報で多くの主観的情報を提供するのがコンテンツであるということになるのではないでしょうか。

明快で気持ちいい。ここではかなり省略しましたが、本書では川上さんの思考プロセスがもっと丁寧に書かれています。読んでいて痛快でした。

 

おわりに

この川上さんによるコンテンツの定義は、音楽でいうと作詞にも何か繋がる部分があるのではないかと考えています。作詞や言葉についても、考えたり書いたりしていこうと思います。

さよならを言うのがこんなにもつらい相手がいるなんて、ぼくはなんて幸せなんだろう。さようなら!